
株式会社台湾番長のクライアントを紹介していくシリーズ、第4弾は、シキナミカズヤ建築研究所の敷浪一哉さんです。建築家として日本で順調に活躍している敷浪さんは、なぜ台湾進出にチャレンジするのか。「人と建築」をテーマにしてきた敷浪さんの半生と、これから目指すものについて聞きました。
北海道根室市出身の敷浪さん。父の弟である伯父が地元で設計事務所を構えており、小さい頃から「建築のデザイン」というものがあると知って育った。中学、高校の頃には絵を描くか、ものづくりに携わる仕事をしていきたい、とすでに思っていた。
しかし、絵を描くことは上には上がいると気づいた。理系の勉強が好きで、デザインやアート…と考えたところ、「建築なら勝てるのでは」と思い至り、東海大学工学部の建築学科に入学した。
建築とは人が使うものだから、「人と建築との距離感」のようなものを学べるのではないか、と考えていたが、実際は真逆の学問だった。工学部で教えていたのは、建築が社会や政治、経済といかに結びついてきたか、ということだった。
思っていた学問とは違ったが、「人と建築」を突き詰めたいという思いは変わらなかった。人の営みと密接に関わっている、という考えから住宅の設計をする建築家になりたいと志すようになった。

最短距離で独立したい、という思いがあったため、就職先には少人数で住宅の設計をしている建築事務所を選んだ。終電まで働く毎日。そして学生時代から続けていたラクロスも選手として活動していたので、寝る間も惜しんで動きまくっていた日々だった。この頃のことを敷浪さんは「修行」と表現する。
25歳で一級建築士の資格を取得し、妻の実家の不動産屋を手伝う形で建築士のキャリアをスタート。そして29歳の時に「シキナミカズヤ建築研究所」を設立し、独立した。
「人の内面と建築」をテーマに取り組みたいと思っていたが、独立したての頃は業界的に評価されず、「本当にこれでいいのかな」と思うこともあった。だが、東日本大震災を機に、潮目が変わった。
「あの震災を機に、建築が人に寄り添っていく、ということが急に評価された感じがありました。そのあたりからコンテストでも入賞するようになり、自分の考えてきたことは間違いではなかったんだなと思えました」

今まで信じてきたことをより研ぎ澄ませ、簡潔にわかりやすく伝えるにはどうしたらいいか…を考え抜いて、生まれたのが「感情をデザインする」という言葉。これが「シキナミカズヤの建築」と定まり、ここまでやってきた。
さらにコロナ禍からコロナ後には、暮らしを見つめ直すという流れが起きてきた。ここ5年ほどは敷浪さんと同世代や、さらに若い人たちからの注文も増加。地方移住や別荘などの仕事も増えている。
「自分のコンセプトは変わらないのに、時代が変わって広く受け入れられるようになったというのは、面白いなと思います」
外崎とは、外崎が2025年の春に東京に出てきた頃に知り合った。年齢も近く、気の合う友人として付き合っていたところ、ある時、外崎から「敷浪さんの建築を台湾に売り込みたい」と提案された。
正直なところ、敷浪さんの頭に「台湾に行く」という考えはまったくなかった。建築は言語と密接な関わりがある仕事であり、海外の人の気持ちが理解できないのに設計するのは、難しいと考えていたからだ。しかし何度も口説かれ、考えが変わってきた。

「はじめは『えー』と思っていたんですが、そこまで言ってくれているということは、僕がやっていることに何か商機があると感じてくれて、誘ってくれたんだろうなと思ったんです」
ちょうどその頃、プライベートでも大きな変化があり、年齢も50歳になった。50歳から先の人生設計をあまり考えておらず、このまま惰性で続けていくのもありだが、思い切ってチャレンジしてみてもいいのでは、という気持ちが湧き上がってきた。
2025年の11月に、台湾のビジネスツアーに参加。実際に台湾に行って、街を見て、文化に触れてみると、日本と同じようで違う面白みを感じた。台湾の方に寄り添い、特化した表現をした時に、それが受け入れられる土壌がもしかしたらあるのではないか…今はそんな期待がある。
「日本よりも台湾の方の方が、より感情で物事を決断する傾向があるのではないか、と感じました。日本人の方って、『数字的にこのぐらいで収まったから満足』とか『この性能があるといい』といったことが評価軸になりやすいんですが、台湾の方の方がもう少し好き嫌い、満足するかしないか、というところで物事を選びそうな傾向が多いな、と。自分もこのタイプなので、似ているところもあるなと感じました」

街歩きをしている最中に見つけた小さな本屋さんは、建築の本をたくさん置いているお店だった。偶然の出会いだったが、そこからもインスピレーションを受けた。「日本の建築の受け入れられている度合いと、あんまり僕の方向性の建築家はいなかったということで、僕がまったく違うジャンルの建築家として入っていける余地もあるのかなと思いましたね」
まだ具体的に「いつまでに進出する」と決まっているわけではないが、今後は台北以外の街にも行って、より台湾の文化に触れ、イメージを固めていくつもりだ。
外崎にサポートしてもらうことについては「頼もしさがありますよね」と口にする。そして友人から始まった敷浪さんだからこそ感じることもある。

「台湾のビジネスの話とは別に、友達関係として定期的に飲んでもいるんです。その真由美さんと、台湾で仕事をしている真由美さんには差がないんですよね。だから、自分も『そのままでいいんだ』って思えました」
クライアント同士を「仲間」と呼び、チームとしてみんなで台湾に行こう、が台湾番長の方針。その姿勢にも心強さを感じている。
商品販売などとは異なり、建築は大きいプロジェクト。まずはどこかの空間の一部分のデザインからでも始められたら…スピードは求めず、マイペースに。敷浪さんの建築が台湾に登場する日を楽しみに待ちたい。





